「他力」の誤用も仏縁に?|他力シンポジウムイベントレポート(23年11月24日開催)

先日11月24日の20時30分より、直七大学オンラインにて「他力シンポジウム」が開かれました。当日は石田一裕先生(大正大学非常勤講師)、藤村潔先生(同朋大学非常勤講師)、中村玲太先生(真宗大谷派教学研究所助手)、西河唯先生(龍谷大学非常勤講師)にご出演いただき、浄土真宗を中心に多く語られる「他力」について考えました。

今回は、シンポジウムのレポートをお届けします。

「他力」というワードを聞くと、仏教にお詳しい方なら最初に思い浮かぶのが「他力本願」という言葉だと思います。特に「他力本願」は浄土真宗で語られることが多いですよね。

ところが、シンポジウムの冒頭では「そもそも浄土真宗だけでなく、仏教全体を俯瞰して考えるべき問題」と石田先生。浄土真宗の他力本願のみ教えだけを考えるシンポジウムではないことが窺えます。

石田先生の発表

石田先生は、「他力」とはお経には出てきていない言葉であると前置きした上で、あくまでもお経を解釈する一つの視点であって、読み手側の受け止め方と考えることができるとお話されました。

その上で、大乗経典の『八千頌般若経』や『無量寿経』、『聖求経』でみられる他力的な仏典解釈の例を示されました。また、「他力本願」の誤用についても言及。

新聞記事において表面化した他力の誤用を、真宗教団連合が指摘した事例を紹介した上で、「他人まかせ」の誤用が嫌われるのは、今なお他力の解釈が信仰として生き続けている証でもあるとお話しされました。

中村先生の発表

続けて、中村先生は「他力とは如来の本願力なり」との親鸞聖人の言葉を基本に、浄土真宗では阿弥陀如来の力と解釈されているとお話しされました。その上で、「他力本願から抜け出そう」という新聞広告に対して真宗教団連合が抗議した事例を取り上げ、しばしば真宗では他力本願についての問題提起がなされてきたことを説明。

その中で、自力の依頼心(自分自身が得をしたいという心のこと)が他力本願という言葉に置き換えられてしまったと話されました。その上で、世間の誤解から読み取れる「力強く生き抜く」とは何かという問題提起をされました。

西河先生の発表

その後、西河先生は浄土真宗における他力の教理史を通して、他力本願について解説いただきました。曇鸞大師「往生論註」、龍樹菩薩「十住毘婆沙論」を引用しながら、曇鸞大師が示された他力の教え、そして龍樹菩薩が示された難行道と易行道について、詳細に解説いただきました。

藤村先生の発表

最後は藤村先生の発表です。藤村先生は「他力」は果たして現代人の理性に耐えうるか、現代人にどう落とし込んでくるかという議論を展開されました。

その中で、具体的なものとして、能動的な視点だと「私が願っている」「課題を持っている」という言葉遣いになるが、他者からの受動的視点だと「願われている私」「課題を頂く」という言葉遣いになるという例を示された上で、

自分が物事に取り組む出来事が、実は他者による見えない力によって成立している、という他力の考え方を身近な例を用いて解説。その上で、清沢満之先生の死生観や創価大学の菅野博史先生の学説を通して、他力という言葉を通して見いだせるものを教えていただきました。

発表を終えて

発表の後、視聴者からは「他力本願は人まかせの意味合いが世間にある。まかせきると何が違うのか?」、「真宗の絶対他力と西山の意味の違いを教えてください。」といった質問がありました。

また「メディア等で、誤用があまりにも浸透してしまって、本来の意味を知る方が難しくなってきているような気がします。」といった意見もいただき、発表者と視聴者で宗派を超えた教えの解釈の違いを互いに味わう場となりました。

視聴者と発表者同士のクロストークを終え、他力について中村先生は「他の宗派の方と話し苦悶することで気付かされることがある。一方で、いろんな教えがあるから人が救われていくのであって、悩みすぎたときは楽になるのも重要ではないか。」とイベントを振り返られました。

さいごに

世間的には「人まかせ」、仏教の中でも浄土真宗のみ教えというイメージが強い「他力本願」。シンポジウムを通して、他力は様々な宗派で解釈される教えであり、世間一般での誤用は仏教のみ教えに出あうための取っ掛かりになり得ることを教えていただきました。ご登壇いただきました4名の先生方、ありがとうございました。

なお、他力シンポジウムはYouTubeにてアーカイブ配信をしております。

他力について学びを深めたい方は、ぜひご覧くだされば幸いです。